海底に住むもの
Dさんは15年ほど前まで、M県の南の方で海女さんをしていました。現在は歳をとったこともあり、海女さんを辞めているようです。長いこと海に入っていないでしょう。Dさんが海女さんを辞めた理由というのは恒例のためだと言っていますが、実はある体験をしたのも辞めた原因の一つだったんです。
海女さんを辞める少し前、体力の衰えを感じ始めたところから漁獲量が減ってきていました。息が続かなくなってきたことが、一番の原因でした。
大体はいつも7人の海女さんグループで潜るのですが、グループの中で一番年上の人でもDさんより長く潜ることができています。当時はこんなことじゃダメだと、自分を鼓舞しながらヘトヘトになる日々が続いていたようです。
そんな頃Dさんの潜るあたりで、一人で潜る海女さんを見かけることがありました。浜で見たことはなく、会場にDさんたち以外の桶も浮かんでいません。違うところから泳いで来て、収穫したものは腰袋に入れているのだろうと感じました。
年恰好はDさん達とよく似ています。ただDさんたちが黒のウェットスーツを着ているのに対し、その人は白木綿の磯着という伝統的な格好でした。そして目を引いたのは、その潜水時間の長さと言います。Dさんは息継ぎのために会場に戻り、もう一度潜っても彼女はずっとそこで収穫していました。
そんな彼女がとても羨ましく、Dさんの自尊心を傷つけられていたのだと言います。ある日海から上がり海女さん小屋で一息ついていたときに、Dさんはその海女さんのことを話しました。しかしグループの誰もその海女さんのことに気づいていませんでした。
潜れば目の前のことに集中しますが、時折周りを見回して確認することもあります。Dさんもそうして彼女の姿を確認したので、少なくとも誰か一人は目に入るはずなんです。腑に落ちていないDさんに、一番年配の海女さんが言いました。
「あんた”ともかづき”に魅入られたのかもしれんに。ちっと海女から離れた方がええんちゃうか?」
“ともかづき”は「共潜」と書きます。
昔からこの辺りの海女の間で、ともかづきに魅入られたら海に近づかない方がいい、という言い伝えがあります。簡単にいうとドッペルゲンガーのような存在で、場合によっては海女さんを溺れさせたり、沖の方まで引っ張って連れていったりしてしまうとも言われています。
しかしDさんはそういう迷信を信じていませんでしたし、ましてや彼女に負けたくないという思いが強く、普段と同じように潜り続けました。ところがどういうわけか、その日はろくな収穫がなく、気持ちは焦るばかりで時間だけが過ぎ、体力もいつも以上に奪われていきました。
そんなとき彼女を見つけたんです。いつもと同じ白木綿の伝統の姿でした。彼女は海底の岩に張り付くように獲物を捕っていたそうです。その腰袋はすでに大きく膨らんでいました。
「あそこには獲物がたくさんいる。私もあそこで獲らせてもらおう」
そう思ったDさんは彼女の方へ泳ぎだしたんです。近くまで行ったDさんは彼女の肩にそっと手をおきました。彼女が振り向きました。Dさんたちはゴーグルをつけているのに対し、彼女はゴーグルをつけていませんでした。
その彼女の顔を見た途端、Dさんは凍りついたそうです。驚くほど似ていたんです。Dさんの顔に。海中でもわかるくらいそっくりでした。Dさんはパニックになりました。
これが”ともかづき”なのか?本当に人間ではないのか?私はこのまま溺れさせられてしまうのだろうか?
後藤さんはその場から動けなくなってしまいました。同じ顔をした彼女も全く動こうとはしません。しかしそんな中でもDさんの体内の酸素だけは確実に減っていきました。その結果Dさんの視界は急激に暗くなっていき、意識も薄れていきました。おぼろげな意識の中、自分の腕が引っ張られ浮上する感覚を味わいました。
そのとき眼下には彼女の姿が目に入ったそうです。彼女は笑いながら手を振っていたと言います。そして完全にDさんの意識はなくなってしまいました。気が付いたのは海女さん小屋でした。Dさんの異変に気付いたメンバーの一人が、会場まで引き上げてくれたのだと言います。
幸い海水も飲んでおらず、しばらくすると体調も良くなってきました。年配の人が言うにはやはり”ともかづき”にあったのだと言います。それをきっかけにDさんは海女さんをやめました。この話をした後にDさんはこのように語っています。
「私は運が良かったのかもしれん。あんなものを見てからは事故があるたびに”ともかづき”に連れて行かれたのかもしれん、と思うようになった」
昔からDさんとは知り合いで話したこともあったのですが、幽霊の類を信じるような人ではないと思っていました。ですからこの話の最後の言葉に、私はとても驚いたんです。最後に思い浮かんでいたのは、Dさんと同じ海女さんの姿でした。彼女は今でも海底深くでDさんのことを待っているのかもしれません。
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