深夜、残業で疲れて、私は家に帰った。
ふらふらだった。
マンションに帰る。
エレベーターに乗る。
私は7と書かれている数字を押す。
ふと、私は奇妙なものに気が付く。
このマンションは、8階までしかない。
それなのに、9階が存在する。
ああ、分かった。
間違えて、お隣さんのマンションに入ってしまったんだ。
この辺りは、同じような住宅街が並んでいる。私はきっと勘違いしたのだ。
すでに、エレベーターは動き出していた。
待て、よ。
私はマンションに入る際に、オートロックの鍵を使っていた。…………。
このマンションは、私が住んでいるマンションの筈なのだ。
私は七階を押していた筈が、九階のボタンが表示されていた。
……疲れている。
急いで戻ろう。
エレベーターのドアは開いていた。
そこは、真っ暗な闇だった。
私は何故か、誘いこまれるように、ふらふらと九階の闇の中へと入っていく。
後ろのエレベーターが閉まる。
改築工事で、マンションを増設したのだろうか?
私はそんな事を考えていた。
とにかく、スーツを脱いで、歯を磨いて眠りたい。
明日も朝から職場に行かなければならない。
私は、ふと、戻りたくなかった。
私は闇の中へと向かっていく。
何処まで歩いていたのだろうか。
灯りのようなものが見えた。
私はそれに近付いていく。
何か、大きな生き物の気配がした。
何かが、此処には潜んでいる。
大型犬だろうか?
それにしては、大き過ぎる。
灯りによって、その姿が映し出される。
それは、体色が青みがかっていた。
尻尾は、蛇だ。コブラだと思う。
背中には、巨大なワシのような翼を生やしている。
昔やっていた、RPGで見た事があるような怪物だ。……だが、ゲームと違うのは、実際に見ると、とてつもなく禍々しく、そしておぞましかった。
その怪物には、顔が無かった。
暗闇で、顔が覆われている。ただ、闇の中、二つの眼だけが私を見下ろしていた。
私はその怪物から、逃げる事にした。
ただ、脚がすくんで動く事が出来ない。
<異世界の扉を開いたのは、お前か?>
怪物は、私にそう訊ねる。
私は何の事だか、分からない。
<お前か? と、聞いている>
怪物の声は、静かに鳴り響く。ノイズがかっていて、まるで私がこれまで聞いた事のある、ありとあらゆる人々の声をかけ合わせたような不気味な声だった。
私はぼうっと想い出す。
一週間くらい前だろうか。
私は、真夜中にスマートフォンを眺めながら“この世界から逃げ出せる方法”というおまじないを行った。なんでも、それはエレベーターを使うものらしい。
まず、最初に、六階以上あるエレベーターの最上階に降りた後に、異世界に行きたい、と三回、口に出して呟く。その後、エレベーターに一階に降りて、五階、異世界に行きたいと呟く。その後、エレベーターの三回から出て、この世界から消えたいと三回、口に出す。その後、また最上階に登って、異世界の扉、開いてください、と言う。
その時に必要な持ち物は、カッターナイフでもいいので、何か刃物。
そして、赤い糸らしかった。
赤い糸が、現世において、自分を繋ぎ止めるもので、刃物を持っていく事によって、現世との未練を断ち切る事が出来るらしい。
儀式を行った、ちょうど一週間後、同じエレベーターに乗ると、最上階の一つ上の階が現れる。最上階が六階だったら、存在しない筈の七階が現れて、最上階が十階なら、存在しない筈の十一階が、エレベーターのボタンで現れる。
そして、私は、今日がちょうど、一週間後である事を思い出した。
一週間前に、私は、余りにも仕事で疲れていた為に、その儀式を思い出しながら行ったのだ。ちょうど、自宅のマンションの中には、縫い物用の赤い糸と、カッターナイフがあった。
<どうやら、想い出したようだな?>
顔の無い怪物は、私に訊ねる。
その怪物の全身からは、奇妙な霧のようなものが放たれているように見えた。多分、この怪物は、冥府とか、異世界とかの門番のようなものなのだろう。
「はい、私は、一週間前に、儀式を行いました。異世界に行く為の儀式です」
私は怪物に、そう告げた。
<では、わたしの背中に乗れ。異世界に連れていってやろう>」
顔の無い怪物は、座る。
巨大な翼がたたまれる。
私は怪物の背に乗った。
<では、行くぞ。もう、戻れないかもしれないぞ>
怪物は私を連れて、闇の中へとはばたいていく。
辺りは、轟音ばかりが鳴っていた。
何か異様な嘆き声のようなものが、辺り一面から聞こえてくる。
川のせせらぎのような音も聞こえた。
水が沸騰するような音も聞こえる。
一体、此処が何処なのか。
まるで、私には分からなかった。
そのうち、私は気を失う。
怪物は、意識を失う前に、私に囁き掛けてくれた。
<もし、戻りたかったら。赤い紐を辿れ。もし、行った先が何処か知りたかったら、鞄の中を開け>
確かに、彼はそう言った。
気が付くと、私は夜の街に佇んでいた。
ネオンライトが光っている。
何処の街なのだろうか。分からない。
人々の姿は見えなかった。
ふと、私は気が付く。
ああ、此処は、異世界なのだ。
エレベーターによる儀式によって、私は遠い異世界に連れていかれたのだ。
手には、仕事用のバッグを持っていた。
中を漁る。
すると、赤い糸が出ていた。
赤い糸は、何処か遠くへと繋がっている。
私はしばらくの間、街を歩いていた。
車は走っているが、車の運転手はまるで虚ろな顔をしていた。
コンビニに行くと、店員も客もいるが、何処か無表情だった。
私は、ジュースとスナック菓子を買ってみる。
コンビニの店員は、無言でレジを打ってくれた。
しばらくすると、自動車事故が起こった。
車が横転して、人が倒れていた。
誰もそれを見て、助けようとしない。そもそも、まるで人々は見えていないかのようだった。
私は、一体、此処がどこなのか知りたくなった。
此処は、一体、何なのか。
気付くと、鞄の中に、見知らぬノートが入っていた。
ノートをパラパラとめくる。
すると、ノートには、こう書かれていた。
‐此処は、灰色の人々の街。灰色の人々は、夢の世界で生きており、生者でも、死者でも無い。その中間に位置する者達。彼らは生きる事と死ぬ事の狭間にいる。‐
ノートには、そう書かれていた。
どうやら、此処は、夢の世界らしい。
私はふと、頭の中で両親の顔が浮かぶ。
両親の声が、強く聞こえた。
私のバッグからは、赤い紐が伸びている。私は紐を辿って、帰っていく。
どれくらい歩いただろうか。トンネルが見えた。私は、トンネルの先へと進む。大きな光が見えた。
しばらくすると、そこは白い病室だった。
私はどうやら、全身、包帯塗れだった。
口に呼吸器を付けられている。
両親の顔が、そこにはあった。
どうやら、私は自宅のマンションから飛び降りて、地面に倒れて、意識不明になっていたらしい。両親は泣いて、喜んでいた。
それから、私は元の仕事に復帰出来ず、病院でリハビリを行っている。
右足は障害が残るかもしれないと、医者に言われた。
職も失い、私は、今、生きる事に無気力だった。
あの存在しないエレベーターの最上階の一つ上の中で会った怪物は、とても恐ろしかったが、彼の背中の上に乗ると、何処か私を慰めてくれたような気がした。……また、生きる事が嫌になったら、両親や、その他の友人達の制止を振り払って、私はまた異世界に行くだろう。きっと、そこは覚めない夢の世界なのだろうから。
異世界へ行くエレベーターを読んだ感想
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